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| 近代和様から帝冠へと進んだ時代の置きみやげ。 |
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DATA |
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■設計:広島市営繕課
■所在地:広島県広島市南区比治山町7-1
■用途:記念堂
■竣工:1934年(昭和9年)10月
■構造:RC造 平屋
■付近の地図(mapion) |
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比治山の山腹に立つ建造物。頼山陽(1)の没後百年祭を記念するために広島市が計画し、「文徳殿建設翼賛会」の寄付金などで建設された。建設地として、頼家一族の墓地に隣接しているこの場所が選ばれた。
竣工時の写真を見ると、屋根は瓦葺きで今のような角張った形ではなかった。内部には頼山陽の銅像などが置かれていたという。
さて、確かに没後百年という節目であったとはいえ、頼山陽のために近代和様コンクリート建築を建てた理由は何だったのか? 根拠となる文献も何も持っていないが、推理してみたい。
頼山陽は江戸時代の広島が生んだ数少ない文人である。だが日本史での扱いは大きくないし、現代だと知名度は極めて低いはずだ。そこにこの「文徳殿」である。
誰もが報国の姿勢を形で示さねばならなかった(2)時代、対外侵略政策に第一級の貢献をしていた広島としては、頼山陽を「維新志士に影響を与えた報国のシンボル」として強引に引っ張り出し、記念堂のデザインに帝冠チックな近代和様を選択したのだろう。「文徳殿建設翼賛会」というのもいかにも当時っぽい。
現在は訪れる人も気付く人も居ない。中は倉庫なのか納屋なのか、物が散乱している。まるで「あれは無かったことにしてくれ」と言うかのようだ。
わざわざこれを見に行く人はいないと思うが、現代美術館のついでに見に行くくらいの価値はあると思う。
[参照:軍都としての景] |
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頼山陽文徳殿
RAI San-yo Memorial |
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#1:雑草をかき分けて進むと目の前に出現する。 |
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#2:被爆時の爆風で変形した塔 |

#3:何とも言えない不思議な造形 |
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[補注]
(1) 頼 山陽(らい さんよう・1780-1832)
1780年に大坂で生まれるが、父春水が広島藩に迎えられたために広島に移住する。1797年には江戸へ一年間遊学する。このころから奇行が目立つようになり、1800年には突如脱藩し京都に向かう。しかしすぐに戻され、幽閉された。その幽閉されていた間に「日本外史」の草稿をまとめたとされる。後に京都に移り1832年に没した。ちなみに頼家は竹原の出である。
(2) 例えば国民や企業から大量の航空機が献納されたのは有名。ちなみに東京の九段会館(現存する帝冠様式の代表事例)はこの建物と同じ1934年に竣工している。
[参考文献・サイト]
1) 頼山陽史跡資料館ウェブサイト http://www.pref.hiroshima.jp/kyouiku/bunka/raisan/raisan.html
2) 広島市+被爆建造物調査研究会(1996)「ヒロシマの被爆建造物は語る」広島平和記念資料館
pp188
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作成: 最終更新:2004/5/9
作成者:makoto 使用カメラ:Canon PowerShot G3 |
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EAST DELTA INDEX |
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| (CC) arch-hiroshima 2006 |
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