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終戦直後、戦災復興院の委嘱をうけたとき、私は率先して広島担当を申し出た。当時、草さえも一本も生えぬであろうなどとうわさされていた広島だったが、私はたとえわが身が朽ちるとも、というほどの思いで志願した。楽しい高校生活を送った土地であると同時に、父母をほぼ同時に失ったそのときに、大難を受けた土地であることに大いなる因縁を感じていたからである。
(丹下健三・都市・建築設計研究所サイトより引用) |
終戦間際、父の訃報を耳にした丹下は今治の実家に向かい、その途中で広島全滅の報を聞く。たどり着いた今治は広島と同じ8月6日に空襲を受けて壊滅しており、残された母も空襲で亡くなっていた。丹下が広島にこだわったのにはこうした個人的な思いも大いに影響していた。
旧制広島高校のOBでもある丹下は焦土と化した広島に乗り込み、まず復興都市計画の立案、次いで世界平和記念聖堂コンペ、平和記念資料館コンペと関わっていくことになる。 |
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| 1 スケールについて −戦後の日本建築が「社会的人間の尺度」を獲得した瞬間− |
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#2:資料館のファサード。丹下はピロティの階高6498mを「社会的人間の尺度」、踊り場の階高2482mmを「人間の尺度」と表現している。 |
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この建築を見るときにまず注意すべきなのは、戦前の広島は大都市とはいえ低層でヒューマンスケールの都市であり、大きな建築といえば福屋百貨店くらいのものであったことだ。そして戦災によりこの”グラウンド・ゼロ”には本当に何も無くなった。そこに建てられたのがこのヒューマンスケールを遙かに超えた大建築である。そのインパクト(賛意より反発の方が圧倒的に大きかっただろうが)は現代からは想像できないほど大きなものであったに違いない。
丹下は戦後の日本では建築のスケールは巨大化していくと確信し、「ヒューマンスケールからの脱出」を訴える。焦土と化した都市を蘇らせるにはチマチマした建築ではダメで、「人間の尺度(=ヒューマンスケール)」を超えた「社会的人間の尺度」による大建築こそ必要であると説く。
わたくしはローマで神々の尺度によって建てられた建築の前で感動した。そこを発ってロンドンに着いた日のことをグロピウスにたどたどしく語った。グロピウスは、近代建築は人間の尺度によって建てられなければならないことをこんこんと語った。−(中略)−しかしその時、わたくしはすでに広島の陳列館で、人間の尺度を超えた尺度を採用していたのである。わたくしは、それを近代社会における群衆の尺度、高速度交通の尺度を考えているのであった。−(中略)−その後、コルブジエのマルセイユのアパートを訪れて、社会的人間の尺度とでも言うべき尺度によって構成されているピロッテイの下に立って、感動した。−(中略)−そうして日本に帰ったとき、丸の内や銀座の1階の家並みは、余りにも人間的であることに驚いた。その矮小さは、わたくしを圧迫し息苦しくさせた。それは余りにも非社会的であった。わたくしにはむしろそれが前近代的に思われた。−(中略)−わたくしは気掛りになって広島の現場に建設中の陳列館を見に行った。そうしてわたくしの意図がさほど間違ってはいないことを感じた。
(雑誌「新建築」1954年1月号より引用|一部仮名遣いなど修正) |
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#3:踊り場で撮影。梁に手が届きそうだ。 |
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丹下健三が初めて海外に行ったのはコンペで当選した「広島計画」をCIAMの大会で発表するために(ローマ経由で)ロンドンを訪れた時であるというから、この文章はその時のものであろう。グロピウスとはバウハウスの校長を務め、インターナショナルスタイルの提唱者でもあるヴァルター・グロピウス(Walter
GROPIUS/1883-1969)、マルセイユのアパートとは「ユニテ・ダビタシオン」を指す(平和資料館のピロティはユニテ・ダビタシオンのそれに酷似しているとされる)。
グロピウスは丹下にヒューマンスケールの大切さを説き、丹下はそれを前近代的と切り捨てる。そして欧米を巡り再び広島の現場を見たときに自分の考えの正しさを再確認する。日本建築の脱ヒューマンスケール化の先頭に立つ、まさに開拓者だったことが伝わってくる。
ただし、住む家さえ事欠く極貧生活を送る人が多い中このような大建築を作ることには猛烈な反対があったことも事実で、丹下自身も葛藤があったと述べていることを付記しておきたい。
わたくしは、広島の平和会館の実施設計にあたって、人間の尺度と社会的人間の尺度の二つの尺度の対位によって建築を構成してみようという野心をもっていた。最初に取りかかった記念陳列館では、社会的尺度による主構造にたいして、人間の尺度をもつ階段の踊場の流れや同じく人間の尺度による鳥籠構造をなすルーバーが交錯してゆくものであった。
(雑誌「新建築」1954年1月号より引用|一部仮名遣いなど修正) |
社会的人間の尺度とは高層建築と自動車交通を前提とする現代都市のスケールであり、人間は豆粒ほどのサイズ。十分な引きをもって見渡す「遠景」である。一方、人間の尺度とは人が実際に触れる範囲を想定したスケールであり、「近景」である。 丹下は、資料館及びピロティの階高6498mmを社会的人間の尺度、踊り場の階高2482mmを人間の尺度とし、後者を前者の中に入れ込む構造にしたと述べている。2482mmが本当にヒューマンスケールであるかは、各自が現地で確認してもらいたい(写真#2,
#3)。 |
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#4:1952年の中島エリア。原爆ドームの左にあるのは当時の商工会議所。
撮影:佐々木雄一郎 |
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「人間の尺度」から「社会的人間の尺度」へ一気に変わっていく際のインパクトを知るにあたっては、当時の写真がヒントを与えてくれる。ここでは戦後の広島を撮り続けた写真家、佐々木雄一郎の作品を二点紹介したい。
写真#4は1952年の中島エリア。平和公園建設のため整地が進んでいる。
戦後の著しい住宅難のため、基町エリアの原爆スラム(詳しくはこちら)だけでなく、このエリアにもバラックが建ち並び、まさにヒューマンスケールの景を形成していた。 |
#5:1951年、建設中の平和資料館。
撮影:佐々木雄一郎 |
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写真#5は1951年の資料館。日雇い労働者を相手に行商人が商売をしている。
資料館の建設は、失業に苦しむ被爆者や復員兵に職を与える意味もあった。この写真は写真作品としても大変優れており、大建築が出現する過程での人々の営みを、豊富な情報量とリアリティをもって伝えている。 |
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| さて、この広島ピースセンターで確固たる地位を築いた丹下は、経済成長の追い風にも乗って、次々にヒューマンスケールを超えた大建築を手がけ、日本の建築界を率いていくことになる。しかしその行き着いた先は新宿の東京都庁舎であり、ヒューマンスケール軽視のマイナス面ばかりが目立つ、悲しい結末になってしまっている。(附論を参照)。 |
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| 2 慰霊か平和か |
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注意していないと気付かないかもしれないが、現在でも新聞等で日本政府のコメントと広島・長崎市のコメントが併記されることがある。そしてえてして両者の間には明確な温度差がある。歴代の広島市長は一政令市の首長の職務レベルを超えた独自外交に近いことを行っており、その主張は黙殺されるとはいえ、「かの有名な"HIROSHIMA"の市長の言葉」は世界に対して一定の影響力を持っている。こんな都市は他にないだろう。
「平和の門」でも書いたように、盲目的な恒久平和論(時に現実逃避と批判されるが)を展開していくと行き着く先はインターナショナリズムである。そこに国家・民族・宗教などという要素は何ら意味を持たない。この平和記念資料館の意匠にはあからさまな日本的要素は盛り込まれていない(ただし最終的には”伊勢”に帰結していくのだが)。丹下は設計に際してどこの国のものでもない人類共通の建築様式、インターナショナル・スタイルを採用し、ル・コルビュジェの造形にそのヒントを求めた。 |
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#6:震災記念堂の外観(設計:伊東忠太) |
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その頃は、むしろ慰霊堂を中心とした平和記念塔のようなモニュメントを建設しようとする動きの方が強かったのであった。当時市の顧問であった英軍建築家は、盛んに五重塔のごときものの建設を主張していた。私は彼の訪問を受けたとき、東京の震災供養塔に彼を案内し、あなたたちはこのようなものが欲しいのかと激怒したことを記憶している。
(雑誌「新建築」1954年1月号より引用|一部仮名遣いなど修正) |
英軍建築家とは、広島市の復興顧問として活動したオーストラリア軍建築家のジャービィ少佐(S.A.JERVIE)と思われる。
ここで注意すべきは、丹下が目の敵にしている震災記念堂(写真#6, #7)と広島ピースセンターは根本的に性格が異なるという点だ。前者は関東大震災による死者を弔うための建築、すなわち「慰霊施設」であって、「もう地震が来ませんように」と祈る場所ではない。そもそも地震は天災なのだから祈っても意味がない。一方、後者は戦災による死者を弔うと同時に、「もう戦災がありませんように」と祈ることが目的となっている。戦災は天災ではないから人々の気持ち次第で防ぐことができる。丹下は「この施設は慰霊というよりは祈りが主目的なのだから、震災記念堂のような近代和風の意匠は不適切だ」と主張する。
平和は訪れて来るものではなく、闘いとらなければならないものである。平和は自然からも神からも与えられるものではなく、人々が実践的に創り出してゆくものである。この広島の平和を記念するための施設も与えられ平和を観念的に記念するためのものではなく平和を創り出すという建設的な意味をもつものでなければならない。
わたし達はこれについて、まずはじめに、いま、建設しようとする施設は、平和を創り出すための工場でありたいと考えた。
(雑誌「建築雑誌(新建築)」1949年10月号より引用|一部仮名遣いなど修正) |
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#7:震災記念堂の内部 |
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だが慰霊機能を完全に無くしたわけではなく、公園の中心に慰霊碑を置くことも決めている。この慰霊碑については、幻のイサム・ノグチ案の話題などあるため、別ページにて扱いたい。
しかし、このような判断にもかかわらず、わたくしの心情は、迷わざるを得なかつた。慰霊堂を含む記念塔を、広島の人々が求めていることのなかに意味があるように思えるのであつた。無垢の犠牲者を、父や母や、妻や子にもつ広島の人々の希いにたいして、何か慰霊し、祈念するための施設を、ささやかなものであるにしろ、もちたいと感じたのである。
(雑誌「新建築」1954年1月号より引用|一部仮名遣いなど修正) |
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| 3 景観軸について −都市における景観軸の作り方とピロティの効用− |
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#8:被爆前の中島町(*2)
被爆前、このエリアは中心市街地であった。川辺に建つ産業奨励館(A)、投下目標になった相生橋(B)、筆者の母校である本川小学校(C)、燃料会館(D, 旧大正屋呉服店)が見える。 |

#9:丹下による平和公園(*3)
平和大通り(a)と直交するように、資料館(b)、慰霊碑(c)を配置し、その延長線上には原爆ドームがある。さらに敷地には公会堂(d, 現国際会議場)が置かれた。中島町の面影を残すのは燃料会館(e, 現レストハウス)のみとなった。
(※コンペ時の案では慰霊碑の上に大アーチがあった) |
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広島市は旧中島地区を記念公園として整備することを決め(このことは丹下が復興都市計画策定時に提案していた)、1949年、国家予算と国有地の拠出を求める「広島平和記念都市建設法」の国会議決を待ってコンペ(設計競技)をスタートさせた。対象地区は旧中島の三角形のエリアおよび原爆ドーム周辺で、平和記念公園および平和記念館を設計する。
コンペの結果は1等・丹下健三、2等・山下寿郎、3等・荒井龍三となった。丹下は幅員100mの平和大通り(*1)と直交し原爆ドームに向かう景観軸を定め、その軸上に慰霊碑を、後方にゲートとしての資料館を計画した(写真#9)。
審査員を務めた岸田日出刀のコメント。
(略)− そしてこの軸の正しいとり方は、周囲の都市計画的諸要素との関連において決定されるべきものであり、この点本案は巧みな解決案を提示している。−(略)− 川越しに遠く元産業奨励館の絵画的な残骸を望むヴィスタの効果をねらった本案の計画は、なかなか非凡である。
(吉田研介ら(1995)「建築設計競技選集1945-1960」メイセイ出版 より引用) |
資料館は平和大通りから原爆ドームへの視線を遮らないよう、ピロティにより空中に浮かせる形とされている。つまり資料館のピロティは造形的に優れている以前に、グラウンドレベルで景観軸を通すという重要な機能を持っていることになる。これほど明確で重要な機能を与えられたピロティが他にあるだろうか? |
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#10:ピロティを通して慰霊碑、原爆ドームが見える。この軸は現在でも広島で最も重要な景観軸として機能しているが、商工会議所ビルがドームの背後に建つことでひどく損なわれている。2006年、広島市はようやく原爆ドーム後背地に高さ規制を課す方針を固め、今後は景観形成が進むと思われる。 |
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#11:ピロティの造形 |
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#12:慰霊碑の背後を池とし、慰霊碑と原爆ドームとの間に人が立ち入らないよう工夫している。 |
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せっかくなので丹下案以外についても見ておこう。2等の山下案は平和公園を周囲の都市構造や100m道路とは切り離し、景観軸を東に向けている。都市に良質なストックを追加するというよりはランドスケープ単体での造形を追求した印象を受ける。3等の荒井案では景観軸は三角形の敷地の頂点を狙っており、軸の先に原爆ドームはない。
本来ランドスケープ設計に正解などないはずだが、素人目に見ても丹下案が「正解」でその他は「不正解」に見えてしまう。
今ならアーバンデザインの際にはまずアイストップを捜し、そこに向けた景観軸を作り、必要な建築や動線を配していくのは普通に行われているから、「原爆ドームを狙って軸を作るなんて当然じゃん」と思うが、当時はどうやら丹下以外誰もこの「正解」に気付かなかったようだ。この衝撃は後進の建築家たちに都市的なスケールで建築を考えるという発想の転換を促したとされる。 |
#13:原爆ドーム側から平和公園の景観軸を俯瞰。
写真提供:(財)広島観光コンベンションビューロー(WEB) |
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このアイディアが出てきた過程について、藤森照信、松葉一清氏がインタビューした時の記録。
藤森・松葉: 先生の計画案のすごいところは、100m道路と直交して原爆ドームを望む軸を通したところですが、それを思いつかれた時の記憶はありますか。
丹下: はっきりしていません。都市計画的に見て、100m道路がやはりベースになる。それからこの敷地の北東から45度の角度でここを横断する道は広島の銀座だった道で、交通路として残したい。100m道路の両端の橋は別として、橋が三つもあって重要な交通路となっている。それらをどう連結するか難しいわけです。それから原爆ドームをどう扱うかはなかなか出てきませんでした。
しかし最終的に、100m道路と垂直な軸を基本にして展開しようと…。でもだいぶ後になって気がついたんです。最初から気がついたわけではない。
藤森・松葉: 何案かつくられたのですか。
丹下: 何案か並行でつくるというのではなくて、ゴシャゴシャやっているうちにパッと出た。私はこの形が好きでしてね。
藤森・松葉: この[広場を中心とする]つづみ形[の道路パターン]ですね。
丹下: 戦争中のコンペでも使っているんです。このつづみ形を使うと、敷地の中のネットワークができて、さらにセンターができるということが、だんだん分かってきましてね。そしたら、このセンターとドームを結ぶと100m道路と直角になるんじゃないか、ということで決まったと思います。このつづみ形を探し出したとき、何か解けるような感じがしたんです。
そうするとメインのアプローチはここだ。広場にはゲートから入るようにしたい。じゃあ陳列館をそのままゲートにしようということで、ピロティで上げたんです。
藤森・松葉: 最初は道をどう付けるかという都市デザイン的なところから入っていかれ、それから個々の建物に進まれたわけですね。
丹下: はい。
(丹下健三+藤森照信著「丹下健三」新建築社 pp139 より引用) |
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丹下は戦前の広島の繁華街がどこにあったかもよく知っていたから、この道路一本だけでも土地の記憶を残そうとした。つまり、この道路と相生橋(T字形の橋)から伸びてくる道、そして100m道路に原爆ドームが与条件となる(上図のphase1)。 そこで、台形を二つつないだような「つづみ形」の道路をこの敷地に当てはめてみる(phase2)。 すると、ちょうどセンターに原爆ドームから100m道路に垂直に伸びる軸が見えてくる(phase3)。 この軸をしっかりと定めた後で必要な建物を配置し、プランをまとめていった(phase4)。
ちなみに戦争中のコンペとは、彼の名を世に知らしめた「大東亜建設記念造営計画」のことだと思われる。
一方、鈴木博之氏は著書の中で、このアイディアと厳島神社の配置計画との類似点を指摘している。
(略)− 原爆ドームからHPシェル型の慰霊碑を経て、平和記念資料館のピロティの間を貫いて延びる軸線は、厳島神社の弥山から本殿を経て海中の鳥居にいたる一本の軸線とまったく同じ性格を秘めているからである。厳島神社の本殿が弥山を背負い、さらに厳島全体を負っているのと同様に、慰霊碑は原爆ドームを背負い、そのドームはさらに広島の町全体を負っているのである。
(鈴木博之著「日本の<地霊>」講談社 より引用) |
建築のスタイルはインターナショナルでありながら、景観軸の作り方は神社仏閣の伽藍配置の影響を受けているとは説得力のある説だと思う。 |
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| 4 現状について −2003年の8.6− |
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#14:ピロティがゲートとして機能する |
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広島市はこの建物について、可能な限り延命して使い続ける方針を決めている。高度成長期の公共建築に多いこの種のモダニズム建築が十分にメンテナンスを受けないうちに老朽化し、軒並み建て替えられていく中にあって、それらの先駆けであるこの建物は今なお役割を果たし続けている。
さて、ピースセンターの真価を知るには、やはり8.6を直接見るのが一番だ。テレビの全国中継は朝の数分しかないが、この日、公園内外には様々な政治団体やら宗教団体やら外国人やらアーティストやらが押し寄せてきて、一種独特な雰囲気に包まれる。インターナショナリズムを体感できるだろう。
現状についてもう一つ。「平和の門」でも書いたように、当事者である被爆者の高齢化はいよいよ進んできている。慰霊と平和という二つのコンセプトのうち、慰霊の色が薄れていく(直接知っていた人を弔うことがなくなる)のは確実で、丹下が本来狙っていた「平和を創り出す工場」としての機能を強化する必要がある。具体的には、平和公園という公共空間を使って世界的なイベントやアート展、インスタレーション等を展開しメッセージ発信能力を高める(ニュースが世界配信されるくらいのレベルまで)ことが考えられる。こういった試みは公共空間活用という時流もあり既に試行が始まっている。(*4)
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#15:この日、式典には数万人が集まる。 |

#16 |
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#17:恒例の灯籠流しも目的が慰霊からメッセージ発信に変化している。 |
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[補注]
(*1) 建物疎開によって生じた空地を元に建設された幅員100mの道路。復興都市計画のシンボル的存在。arch-hiroshima 広幅員街路の景
(*2) 資料館内にある模型を撮影したもの。
(*3) 同上
(*4) 例えば2005年12月現在だと、石井竜也プロデュースのライトアートイベントが平和資料館前で開かれている。
[参考文献・サイト]
1) 丹下健三+淺田孝+大谷幸夫(1954)「廣島計画」 新建築 1954年1月号
2) 宮本和義+建築知識編集部 2002 「中国・四国を歩こう!建築グルメマップ2」
エクスナレッジ pp9
3) 日本建築学会(1998)「総覧 日本の建築 第8巻」新建築社 pp176
4) 吉田研介ら(1995)「建築設計競技選集1」メイセイ出版
5) 丹下健三+藤森照信(2002)「丹下健三」 新建築社 pp130-169
6) 丹下健三(1949)「広島市平和記念都市に関連して」 新建築 1949年10月号
7) 鈴木博之(1999)「日本の<地霊>」 講談社 pp28-48
[行き方ガイド]
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[電車] 広電「原爆ドーム前」または「袋町」から徒歩10分くらい。平和公園の敷地内。 |
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[バス] 赤バス25番線「平和記念公園」バス停の目の前。 |
広島ガイド / 広島市内の交通ガイド |
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[附論] 建築家丹下健三について
建築家丹下健三(1913-2005)は戦後の日本建築そのものと言っても差し支えありません。氏の作品は長きに渡って日本建築をリードし続けました。その時期は大きく三つに分けられると思います。(全編通して敬称は略します)
■第1期 : ル・コルビュジェへの深い共感と日本的なるモダニズムの追求 (1950年代)
丹下は前川事務所の所員、つまりコルビュジェの孫弟子として出発し、当初から建築のスケールを超えたアーバンデザインに目を向け、ヒューマンスケールからの脱出を試みます。それは産業構造の転換に伴う高層&高密都市社会が到来したという人類史上の必然であったためですが、焦土と化した都市にこそ大建築が必要だという決意も影響したものと思います。その代表作が「廣島計画」であり、ここで丹下は平和公園のみならず広島の復興都市計画全般に関わります。
また、丹下は建築の巨大化に対応した日本オリジナルのデザインコードを開拓しようと試み、「香川県庁舎」として実現させます。
■第2期 : メタボリズムグループを率いた大阪万博 (1960年代)
彼の予想通り日本の建築は経済成長と共に巨大化していき、「絶対高さ規制」が撤廃され「容積率」が導入されます。名実共に日本を代表する建築家となった丹下は続々と大建築を手がけ、1960年代に絶頂期を迎えます。この時期の国内作品としては「代々木体育館」と「東京カテドラル」が有名です。一方、構想の中での建築は肥大化を続け、「東京計画1960」として結実します。
この時期、門下生からは「メタボリズム・グループ」が生まれ、丹下は彼らと共に「大阪万博(1970)」を作り上げます。万博は丹下が戦後一貫して追い求めた大建築の極致であり、史上空前の来場者数から見ても、その大建築が当時の人々を魅了し、受け入れられていたことが分かります。
■第3期 : 建築から力を奪い取った経済主義とバブル景気 (1970-1980年代)
大建築への需要は衰えを知らず、続々と高層ビルが建設されていきます。オリンピックと万博をもって復興に区切りをつけた日本では有り余る富が不動産に流れ込み、土地が本来の価値以上に過大評価される”バブル”が発生します。投機の対象としての建築は、極論すると ”ともかく建っていればよい” ことになり、作家性は顧みられません。この時期の代表作としてはスーパーフレームを用いた「東京都庁」がありますが、思想面での提案に乏しく、大建築の悪い点ばかりが目立つ結果になってしまいました。都議会前の広場を目の当たりにして「これが彼の言う広場なのか」と思うと落胆してしまうのは私だけではないはずです。
60年代にダントツの首位を走っていたはずが、いつの間にか後続集団に吸収され、惰性で大建築を作り続けてしまったような印象を持ちます。私が丹下健三の全盛期を万博までと思うゆえんです。
■引退後 : バブル崩壊と人口減少 (1990-2000年代)
この時期も丹下事務所は「フジテレビ社屋」などの大建築を送り出しますが、自身がどこまで設計に関わったのか疑問を禁じ得ません。
21世紀初頭の日本では大建築に人々が群がるシーンが(若干ではあるものの)減ってきました。東京都庁のような大建築は批判の矢面に立たされ、費用対効果がうるさくなり、「新たなハコモノではなく既存資産を活かしたヒューマンスケールのまちづくり」へのシフトが起こっています。「昭和30年代の街並みテーマパーク」や「コンバージョン」「持続可能な発展」は世相を表す一例と言えます。
丹下健三がヒューマンスケールからの脱出を試みたことは人類史上の必然であり、決して間違ってはいませんでした。ただ人口減少に振れた日本では状況が変わってしまい、その変化に対応した方向転換ができず惰性で突き進んでしまった、ということだと思います。
東京都庁はヒューマンスケールからの脱出の悪い点をギュッと凝縮した題材と言えるでしょう。
一方、丹下がヒューマンスケールからの脱出を目指して最初に取り組んだのが広島です。宮崎駿が第1作の「風の谷のナウシカ」でやりたかったことをあらかたやり尽くしてしまい惰性で以後の作品を作り続けているのと同様、第1作の「廣島計画」には現在の大建築につながるエッセンスが詰まっています。大建築の魅力に陰りが見えヒューマンスケールへの回帰が見られる現代の目線で再評価するべき素材と言えるでしょう。 |
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作成:2000/3/22 最終更新:2009/9/19 作成者:makoto 使用カメラ:Canon
PowerShotG1, NikonD70, NikonD90 |
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PEACE CENTER INDEX |
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| (CC) arch-hiroshima 2006 |
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