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| 都市スケールの高密度集合住宅開発。 |
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DATA |
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■設計:大高建築設計事務所 (基町は市、長寿園は県が推進主体)
■所在地:広島県広島市中区基町、西白島町
■用途:
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【基町】集合住宅, 店舗, 小学校, 集会所 |
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【長寿園】集合住宅, 店舗 |
■竣工:1972〜1976年
■規模:
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【基町】敷地8.11ha、延床196,570m2 |
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【長寿園】敷地4.46ha、延床101,457m2 |
■構造:S造、RC造
■付近の地図(mapion) |
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基町・長寿園高層アパート
Motomachi & Choju-en High-rise Apartment Complexes |
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| 戦災復興の過程で生じたスラム住区のクリアランス事業。日本の集合住宅史に残る大作であると同時に、都市計画の教科書にも掲載されている重要事例である。 |
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1.プロジェクトに至るまでの経緯
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#1:手前が県営アパート群 |
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軍都広島の中枢としての基町
まずは経緯について。現在の基町に相当するエリアは広島城本丸に隣接する立地であり、毛利氏による都市建設の当初から武家屋敷にゾーニングされていた。明治に入って広島城に陸軍が駐屯するようになると今度は全域が陸軍関係の施設で占められるようになった(詳細はこちら)。日清戦争時には明治天皇が広島城に入城し、大本営(総司令部)も広島城に移転。基町には帝国議会(現在の国会)の仮議事堂が建てられたというから、期間限定とはいえ広島は一時期日本の首都であったことになる。ちなみに現在の相生通りから北側は全て旧陸軍用地で、紙屋町交差点は現在の十字ではなく丁字を描いていた。
このように軍事都市広島の中枢としての役割を担った基町エリアだが、被爆により全てが灰燼に帰し、何もない広大な空地となった。
原爆スラムの形成
広島市は旧陸軍用地(国有地)である基町エリアを公園として整備する方針を固めて1946年に都市計画決定したものの、著しい住宅難に対応するために応急的な処置として木造平屋の公営住宅(写真#2)を建設せざるをえず、また河川敷や公営住宅のスキマなどに勝手にバラック(*1)を建てて住みつく者も続出し、一帯では「原爆スラム」と呼ばれる木造密集住宅地が形成されていった。占拠住民の中には市が実施した戦災復興区画整理(*2)のあおりで家を追われて流れ着いた者もいたようで、丹下健三の言うところの「人間の尺度」から「社会的人間の尺度」に都市が脱皮していく過程で生じた歪みとの見方もできるだろう。
市は木造平屋の公営住宅を中層のRCに建て替えることを決め、住民の猛反発に遭いつつも1968年までには930戸(市営630戸・県営300戸)を完成させた。しかしその程度の供給量ではとても全体を吸収しきれず、問題解決には高層アパートの出現を待たねばならなかった。
不法占拠住宅群は公営住宅地の外側、主に川沿いに形成されたというから、漫画「夕凪の街」で主人公の皆実(みなみ)が住んでいた家はまさに原爆スラム内の不法占拠住宅ということになる。
劇中の1955年当時は先程書いた中層アパートを建てようとする市と住民が対立していた時期であり、劇中でも「立ち退き絶対反対」とのビラがさりげなく登場している。
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#2:撮影年及び場所について明確な資料はないが、奥に見えるアーチ鉄橋が当時の横川橋と見られることから、現在の基町高層アパート付近にあった平屋の公営住宅と思われる。
撮影:佐々木雄一郎
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#3:手前が市営中層アパート群。
さらに北側に県営住宅群がある。(その他の写真等はこちら) |
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#4: (C) こうの史代「夕凪の街 桜の国」双葉社 pp13 の1コマをトリミング(*3) |
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| 1974 |
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左の写真は1974年の基町。
上の方でくねくね曲がっているのが基町アパートで、既に竣工している。その左に中層住宅。一番下にある大きな屋根は県立体育館(現グリーンアリーナ)。
左側の水面は本川(太田川)で、右の水面は広島城本丸の堀。
基町アパートは竣工済みとはいえ、まだかなりの低層住宅が残っていることが分かる。 |
#5:1974年の航空写真。 国土交通省「国土画像情報(カラー空中写真)」 より引用
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| 1988 |
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こちらは1988年の基町。ほとんど現在の姿といっていい。
原爆スラムの痕跡は何も残っていないし語られる機会もない。今となっては地元でもその事実を知らない人が多いと思う。 |
#6:1988年の航空写真。 国土交通省「国土画像情報(カラー空中写真)」 より引用
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2.プロジェクトの概要
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#7 |
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住宅地区改良事業
原爆スラムを解消し基町地区を劇的に変えるための一大プロジェクトが立案された。すなわち、原爆スラムの住民を吸収するための改良住宅と、慢性的住宅不足に対応するための公営・公団住宅、合計4500戸強を高層住宅(最高で20階)として建設し、長年の悲願である公園および河岸緑地を確保する。あわせてショッピングセンター、小学校、集会室などの生活基盤施設も整備する。当初は特別立法も検討されたが、最終的には住宅地区改良法に基づく住宅地区改良事業として実施されることになった。基町でこの事業が使えたのは、全域が国有地で住民側に所有権がなかったために他ならないが、それでも強制的に測量し立ち退かせる苦労は大変なものだったろう。これには住宅地区改良法が収用を前提としていてソフトなやり方を取りにくい点も影響していたらしい。なお、都市計画的には「特定街区」で担保されている。
資金計画
現代でも再開発事業の事業計画、特に資金計画は権利調整と共に苦労の絶えないところだ。基町では住宅地区改良事業として施行するので国庫補助を受けられたものの到底足りるものではなく、その一方で建築費は高騰を続け、さらに住民の反発を抑えるために高層住宅であっても従前の木造と同等の賃料水準にせざるを得なかった。その結果、コストは極限まで切りつめられ、また補助金を最大限得るために建築デザインにも制約が加わることになった。 |
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3.基町高層アパートの建築について
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#8 |
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基町・長寿園とも設計を担当したのはメタボリズム・グループ(*4)のメンバーとして知られる大高正人。設計者の選定にあたってコンペ等は実施されず、既に「坂出人工土地」で改良住宅によるスラムクリアランスの経験があった大高への特命で業務発注されている。
大高は前川国男事務所の出身だから、基町アパートは当然コルビュジェの「ユニテ・ダビタシオン(1952年)」や前川の「公団晴海アパート(1958年)」の影響を強く受けているものと思われ、現代集合住宅の系譜上に位置づけられる。ただし基町の場合はスラムクリアランスという性格上、常に厳しい現実と向き合わねばならず、理想の造形を追うどころではなかっただろう。
−(略)− 華やかな仕事に比べるとシンドイ、ショッパイ仕事です、と大高さんは苦笑された。作品主義に徹していれば、こんな苦労もないし格好もよかったのに大変なことになった、とも冗談をいわれた。この領域では言語は美をではなく、契約や法を語るからである。しかし、建築家としての大高さんの着眼点はナカナカという感じで、ここまで10年以上もやってきたのでその蓄積もあり、止めるのは採算にあわないし、20年位は中心的仕事になるんじゃないかと思って、とかの大高さんの言葉の裏には、なみなみならぬ思慮と自信が感じられて、ここに新しい建築家の型が登場しつつあることは、ぼくの目がいかに節穴でも素通しとはいかぬ大きさであった。
(石井和紘(1973)「ルポタージュ 基町旋回」 雑誌 新建築 1973年5月号 pp196
より引用) |
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#9 |
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「く」の字型住棟配置
基町アパートの平面計画で特徴的なのは「く」の字型住棟配置だ。くねくねと折れ曲がることで採光や通風に住戸間格差が生じないよう配慮されている。「く」の字を描きつつも南北に細長い配置となっているのはもちろん日影のためだ。
2フロア単位の住戸ユニット
住戸は基本的に9900mmスパンの中に、片廊下に面するAタイプ(専有36m2)と階段でアプローチするBタイプ(専有42m2)を各2戸入れ込んで1ユニットとしている。この方法だと、共用廊下の面積を最小化して専有面積を大きくでき、開放的なエレベーターホールを確保でき、さらにエレベーターが2層おきに止まることでコスト削減も可能となる。また、Bタイプは両面採光にできる(写真#9-14)。
確かに今のように住民が高齢化してしまうと階段を前提とするこの方式は大変な問題となるのだが、当時としてはやむを得ない決断だったと思うし、開放的な共用空間は(設計者の意図通りに井戸端会議空間となったかはともかく)とても魅力的に思えた。
現在このようなスタイルが普通のマンションで採用されることはまずない。高齢者に対応できないのもあるが、今は共用廊下が容積率計算の対象外になっているので経済的インセンティブに乏しいためだ。
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| #10:住戸ユニット |
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#11:基町アパートの立面。バルコニーはPC。手前の緑は人工地盤上に設けられた小公園。 |
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#12:ユニットについて |

#13:共用廊下 |

#14:廊下から住戸を見る。 |

#15:人工地盤上。正面が集会所。 |
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#16:人工地盤の全貌。十字の真下はショッピングモール。さらに地下駐車場がある。十字の左端にはメインの集会所(400m2)が配置されている。サブ集会所(100m2)は屋上に配置。 |
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人工地盤(*5)
中央部のオープンスペースには人工地盤が設けられている。1階は約8000m2のショッピングセンターで2階に歩行者動線を配置し、この通路を使って集会所や学校にアクセスすることができるよう計画されている。人工地盤上が緑化されているのはいいとして、入れる部分が少ないのは残念。
シャッター街
人工地盤下のショッピングセンターは完全にシャッター街と化している。
店舗などの施設を中央オープンスペースに集中的に配置しているのは、店舗経営上の理由と同時に、環境上の理由にもよる。つまり、店舗の施設を数ヵ所に分散するとすれば、各住宅棟のピロティ部分に配置することになり、貴重なピロティのオープンスペースが少なくなるばかりでなく、せっかくの屋外連続空間が分断されてしまう。それに比べ中央部分に施設をまとめれば、その施設の屋根を屋上公園として利用できる大きなメリットをもつことになる。
(藤本昌也(1973)「設計計画概要」 雑誌 新建築 1973年5月号 より引用) |
それは正論だとは思うけども、視認性が皆無の商店街を造ってしまったのは明らかなミスプランニングだ。事実、人工地盤下でない路面店タイプであれば視認性があるから何とか営業できている。(写真#21,
#22) あと、十字形の商店街は見た目は美しいかもしれないが実際の動線を掴めていない。
一般に再開発で区画店舗を作ると(しかも地権者店舗だけだと)たちまちシャッター街になることが過去の経験から知られているから、今ならリーシングの専門家を入れて大型スーパーなどのアンカーを効果的に配置し、個別店舗も共有床化して弾力的に運営するなどの方法を採れる。しかし当時はそのような事例や手法の蓄積がなかったのと、”魅力ある商業空間づくり”のようなスラムクリアランスの範疇を超えることはできなかった、だから従前の店舗をただ収容するだけにとどめ、それがシャッター街化してしまうのはそれはそれでしょうがない…というのも分からない話ではない。
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#17:人工地盤下層は商店街。 |

#18:十字の真ん中に大開口部 |

#19:人工地盤 |

#20:コンクリ壁のディテール |

#21:人工地盤下と違って、路面店は何とか営業できている。 |

#22 |
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#23:ピロティの高さは6m程度。駐車場になってしまっているのは残念。 |
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#24:屋上庭園 |

#25:平和湯 |
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屋上庭園
屋上は1.7mのパラペットが立ち上がっており、外の景色を眺めるというよりは囲われた中庭のような印象。庭園として利用されているが、不審火騒ぎなどのために施錠されており、中に入ることはできない。 |
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4.現状と今後について
既に完成から30年を経た現在、様々な問題が噴出している。
まず、重大な問題となるのが建物の老朽化だ。コンクリートはセメント・水・骨材(砂など)を混ぜて作られるが、基町アパート建設時は建設ラッシュのため骨材が不足しており、海砂を十分に洗浄しないまま使用していた。そのため予想以上にコンクリートの性能が低下しているという。当面は延命処置で持ちこたえるにしても、想定より早く解体される可能性は高い。
また既に書いたように、住民の高齢化が一気に進行しているのも問題で、階段を前提にした住戸プランは大きなバリアになっている。ショッピングセンターはシャッター街と化し、人工地盤やピロティ、屋上庭園といったオープンスペースは設計者の意図通りには使われていない。
ゆっくりとしかし確実にその役割を終えようとしている。実際に訪れてみて改めて実感した。
さて、これをどうするか。できることなら現代集合住宅の系譜上に位置する文化的価値を認めて、一部でもよいから躯体のもつ限り使い続けるべきだと思う。せっかくだからメンテナンス費用を捻出するために公営住宅の枠を外して中所得者層を入居させ賃料収入を上げる(もちろん公営住宅の必要量は確保した上での話だが)工夫をしてみてはどうだろう。立地や環境は抜群に良いのだから、住戸面積を広げて設備を更新してしまえば家賃が少々高くても入居者を集めることは可能だと思う。
しかし躯体の性能低下が著しいことは確かなわけで、もはや改修不能となれば解体して当初のプラン通りに公園化していくべきだろう。時間はかかったが、その時にようやく戦災復興が完了したことになる。 |
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感想
今回、いくつかの文献にあたって調べてみて感じたのは、基町は特殊特殊と言われているけど、合意形成や権利調整、補償、資金計画、外的要因に振り回される建築設計、竣工後の管理、区画店舗のシャッター街化、コミュニティ継続など、現代と全く同じ苦労をしているんだなあという点。確かに特殊なところはあるが、完成から時を経た再開発に一般的にどのような問題が起きてくるのかを知るには良い事例だ。反面教師という意味でも広島で建築探訪するなら外せない場所と言える。 |
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#26:広島城天守閣への配慮として、東側の建物は低く抑えられている。 |
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[補注]
(*1) 役所が休みのうちに建ててしまうことから「土曜住宅」などと呼ばれていたらしい。
(*2) 東京のように途中で頓挫してしまう都市がある一方、広島市は20年以上かけて土地区画整理事業をやり抜き、現代のニーズにギリギリ対応できる道路網や公園の確保に成功した。中心市街地全域に渡る規模の区画整理であり、圧倒的多数の市民が生活困窮者、さらに権利者の生存も不明確で書類もことごとく焼失という中ではトラブルが絶えなかったはずで、担当者の苦労は想像を絶するものであっただろう。ちなみに減歩率(土地の中から道路用地などに提供する率)は東半分が23.6%で西半分が22.6%。
(*3) 原爆スラムのイメージを伝えるために、原爆スラムを丁寧に描いた漫画である当該著作物から引用する必要性を感じ、一こま分をトリミングし引用した。なお漫画著作物からの引用については、いわゆる「脱ゴーマニズム宣言」事件に関する判例(東京高裁平成12年4月25日)があり、引用の原則を遵守していれば法的に問題のないものと理解している。
(*4) 1960年の世界デザイン会議を契機に結成されたグループ。川添登、菊竹清訓、黒川紀章、大高正人、槇文彦といった面々が揃っていた。参考文献
1) に詳しい。
(*5) 常に大地へ目を向けていた大高は、単なるペデストリアンデッキではない、文字通りの人工地盤を構想した建築家である。基町アパートに先立つ「坂出市人工土地計画」では、大高は人工地盤(人工土地)の概念をより明確に具現化している。すなわち、住宅を全て人工土地の上に建設して下部を将来のニーズに備えてあけておくよう計画し、これを実現させた。坂出の事例と比べると基町の人工地盤は、その上に何かを建設可能という意味での「地盤・大地」ではないため、厳密には人工地盤の名は適切ではないのかもしれない。
[参考文献・サイト]
1) 八束はじめ+吉松秀樹(1997)「メタボリズム」 INAX出版 pp186
2) 日笠端+日端康雄(1993)「都市計画第3版」 共立出版 pp306
3) 宮本和義+建築知識編集部(2002)「中国・四国を歩こう!建築グルメマップ2」
エクスナレッジ pp8
4) 日本建築学会中国支部・中国地方まち並み研究会(1999)「中国地方のまち並み」中国新聞社
pp187
5) 植田実(2003)「アパートメント 世界の夢の集合住宅」 平凡社 pp74-87
6) 石井和紘(1973)「ルポタージュ 基町旋回」 雑誌 新建築 1973年5月号 pp195
7) こうの史代(2004)「夕凪の街 桜の国」双葉社
8) 広島市(1996)「図説戦後広島市史 街と暮らしの50年」
9) 軍都としての景(arch-hiroshima)
[行き方ガイド]
最寄り駅はアストラムライン「城北」だが、紙屋町から歩ける距離でもある。 |
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作成:2000/5/18 最終更新:2009/9/19
作成者:makoto 使用カメラ:CanonPowerShotG1, NikonD70 |
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NORTH DELTA INDEX |
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| (CC) arch-hiroshima 2006 |
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