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| 復興広島、そして戦後の日本建築はここから始まった。 |
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| 広島平和記念資料館 および平和記念公園 (国指定重要文化財・国指定名勝) Hiroshima Peace Memorial Museum and Peace Park |
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| 復興広島や建築家丹下健三のみならず、戦後の日本建築はここから始まったと言っても過言ではない、記念碑的な建築である。日本におけるモダニズム建築の傑作でもあり、DOCOMOMO Japanによるモダニズム建築100選にも選ばれている。 ここでは、建設当時の「新建築」誌上での丹下自身の文章等を追いながら、「1 スケール」「2 慰霊か平和か」「3 景観軸」「4 現状」の4つの話題について見ていくことにしよう。 |
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![]() #1:平和大通り(幅員100m)に面した立面。1955年竣工の建物は資料館の「西館」となっている。向かって右端が「東館」。左端は「国際会議場」 |
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終戦間際、父の訃報を耳にした丹下は今治の実家に向かい、その道中で広島全滅の報を聞く。たどり着いた今治は広島と同じ8月6日に空襲を受けて壊滅しており、残された母も空襲で亡くなっていた。丹下が広島にこだわったのにはこうした個人的な思いも大いに影響していた。 旧制広島高校のOBでもある丹下は焦土と化した広島に乗り込み、まず復興都市計画の立案、次いで世界平和記念聖堂コンペ、平和記念資料館コンペと関わっていくことになる。 |
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| 1 スケールについて −戦後の日本建築が「社会的人間の尺度」を獲得した瞬間− | |||||||||||||
![]() #2:資料館のファサード。丹下はピロティの階高6498mを「社会的人間の尺度」、踊り場の階高2482mmを「人間の尺度」と表現している。 |
この建築を見るときにまず注意すべきなのは、戦前の広島は大都市とはいえ低層でヒューマンスケールの都市であり、大きな建築といえば福屋百貨店くらいのものであったことだ。そして戦災によりこの”グラウンド・ゼロ”には本当に何も無くなった。そこに建てられたのがこのヒューマンスケールを遙かに超えた大建築である。そのインパクト(賛意より反発の方が圧倒的に大きかっただろうが)は現代からは想像できないほど大きなものであったに違いない。 丹下は戦後の日本では建築のスケールは巨大化していくと確信し、「ヒューマンスケールからの脱出」を訴える。焦土と化した都市を蘇らせるにはチマチマした建築ではダメで、「人間の尺度(=ヒューマンスケール)」を超えた「社会的人間の尺度」による大建築こそ必要であると説く。 |
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![]() #3:踊り場で撮影。梁に手が届きそうだ。 |
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丹下健三が初めて海外に行ったのはコンペで当選した「広島計画」をCIAMの大会で発表するために(ローマ経由で)ロンドンを訪れた時であるというから、この文章はその時のものであろう。グロピウスとはバウハウスの校長を務め、インターナショナルスタイルの提唱者でもあるヴァルター・グロピウス(Walter GROPIUS/1883-1969)、マルセイユのアパートとは「ユニテ・ダビタシオン」を指す(平和資料館のピロティはユニテ・ダビタシオンのそれに酷似しているとされる)。 グロピウスは丹下にヒューマンスケールの大切さを説き、丹下はそれを前近代的と切り捨てる。そして欧米を巡り再び広島の現場を見たときに自分の考えの正しさを再確認する。日本建築の脱ヒューマンスケール化の先頭に立つ、まさに開拓者だったことが伝わってくる。 ただし、住む家さえ事欠く極貧生活を送る人が多い中このような大建築を作ることには猛烈な反対があったことも事実で、丹下自身も葛藤があったと述べていることを付記しておきたい。
社会的人間の尺度とは高層建築と自動車交通を前提とする現代都市のスケールであり、人間は豆粒ほどのサイズ。十分な引きをもって見渡す「遠景」である。一方、人間の尺度とは人が実際に触れる範囲を想定したスケールであり、「近景」である。 丹下は、資料館及びピロティの階高6498mmを社会的人間の尺度、踊り場の階高2482mmを人間の尺度とし、後者を前者の中に入れ込む構造にしたと述べている。2482mmが本当にヒューマンスケールであるかは、各自が現地で確認してもらいたい(写真#2, #3)。 この広島ピースセンターで確固たる地位を築いた丹下は次々にヒューマンスケールを超えた大建築を手がけていく。しかしその行き着いた先は新宿の東京都庁舎であり、ヒューマンスケール軽視のマイナス面ばかりが目立つ、悲しい結末になってしまっている。(附論を参照)。 |
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| 2 慰霊か平和か | |||||||||||||
| 注意していないと気付かないかもしれないが、現在でも新聞等で日本政府のコメントと広島・長崎市のコメントが併記されることがある。そしてえてして両者の間には明確な温度差がある。歴代の広島市長は一政令市の首長の職務レベルを超えた独自外交に近いことを行っており、その主張は黙殺されるとはいえ、「かの有名な"HIROSHIMA"の市長の言葉」は世界に対して一定の影響力を持っている。こんな都市は他にないだろう。 「平和の門」でも書いたように、盲目的な恒久平和論(時に現実逃避と批判されるが)を展開していくと行き着く先はインターナショナリズムである。そこに国家・民族・宗教などという要素は何ら意味を持たない。この平和記念資料館の意匠にあからさまな日本的要素は盛り込まれていない(ただし最終的には”伊勢”に帰結していくのだが)。丹下は設計に際してどこの国のものでもない人類共通の建築様式、インターナショナル・スタイルを採用し、ル・コルビュジェの造形にそのヒントを求めた。 |
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英軍建築家とは、広島市の復興顧問として活動したオーストラリア軍建築家のジャービィ少佐(S.A.JERVIE)と思われる。 ここで注意すべきは、丹下が目の敵にしている震災記念堂(写真#4, #5)と広島ピースセンターは根本的に性格が異なるという点だ。前者は関東大震災による死者を弔うための建築、すなわち「慰霊施設」であって、「もう地震が来ませんように」と祈る場所ではない。そもそも地震は天災なのだから祈っても意味がない。一方、後者は戦災による死者を弔うと同時に、「もう戦災がありませんように」と祈ることが目的となっている。戦災は天災ではないから人々の気持ち次第で防ぐことができる。丹下は「この施設は慰霊というよりは祈りが主目的なのだから、震災記念堂のような近代和風の意匠は不適切だ」と主張する。 |
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![]() #4:震災記念堂の外観(設計:伊東忠太) |
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![]() #5:震災記念堂の内部 |
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だが慰霊機能を完全に無くしたわけではなく、慰霊碑を置くことも決めている。
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| 3 景観軸について −都市における景観軸の作り方とピロティの効用− | |||||||||||||
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広島市は旧中島地区を記念公園として整備することを決め(このことは丹下が復興都市計画策定時に提案していた)、1949年、国家予算と国有地の拠出を求める「広島平和記念都市建設法」の国会議決を待ってコンペ(設計競技)をスタートさせた。対象地区は旧中島の三角形のエリアおよび原爆ドーム周辺で、平和記念公園および平和記念館を設計する。 コンペの結果は1等・丹下健三、2等・山下寿郎、3等・荒井龍三となった。丹下は幅員100mの平和大通り(*1)と直交し原爆ドームに向かう景観軸を定め、その軸上に慰霊碑を、後方にゲートとしての資料館を計画した(写真#7)。 審査員を務めた岸田日出刀のコメント。
資料館は平和大通りから原爆ドームへの視線を遮らないよう、ピロティにより空中に浮かせる形とされている。つまり資料館のピロティは造形的に優れている以前に、グラウンドレベルで景観軸を通すという重要な機能を持っていることになる。これほど明確で重要な機能を与えられたピロティが他にあるだろうか? |
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![]() #10:慰霊碑の背後を池とし、慰霊碑と原爆ドームとの間に人が立ち入らないよう工夫している。 |
せっかくなので丹下案以外についても見ておこう。2等の山下案は平和公園を周囲の都市構造や100m道路とは切り離し、景観軸を東に向けている。都市に良質なストックを追加するというよりはランドスケープ単体での造形を追求した印象を受ける。3等の荒井案では景観軸は三角形の敷地の頂点を狙っており、軸の先に原爆ドームはない。 本来ランドスケープ設計に正解などないはずだが、素人目に見ても丹下案が「正解」でその他は「不正解」に見えてしまう。 今ならアーバンデザインの際にはまずアイストップを捜し、そこに向けた景観軸を作り、必要な建築や動線を配していくのは普通に行われているから、「原爆ドームを狙って軸を作るなんて当然じゃん」と思うが、当時はどうやら丹下以外誰もこの「正解」に気付かなかったようだ。この衝撃は後進の建築家たちに都市的なスケールで建築を考えるという発想の転換を促したとされる。 |
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![]() #11:原爆ドーム側から平和公園の景観軸を俯瞰。 (写真提供:(財)広島観光コンベンションビューロー) |
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このアイディアが出てきた過程について、藤森照信、松葉一清氏がインタビューした時の記録。
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| 丹下は戦前の広島の繁華街がどこにあったかもよく知っていたから、この道路一本だけでも土地の記憶を残そうとした。つまり、この道路と相生橋(T字形の橋)から伸びてくる道、そして100m道路に原爆ドームが与条件となる(上図のphase1)。 そこで、台形を二つつないだような「つづみ形」の道路をこの敷地に当てはめてみる(phase2)。 すると、ちょうどセンターに原爆ドームから100m道路に垂直に伸びる軸が見えてくる(phase3)。 この軸をしっかりと定めた後で必要な建物を配置し、プランをまとめていった(phase4)。 ちなみに戦争中のコンペとは、彼の名を世に知らしめた「大東亜建設記念造営計画」のことだと思われる。 一方、鈴木博之氏は著書の中で、このアイディアと厳島神社の配置計画との類似点を指摘している。
建築のスタイルはインターナショナルでありながら、景観軸の作り方は神社仏閣の伽藍配置の影響を受けているとは説得力のある説だと思う。 |
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| 4 現状について −2003年の8.6− | |||||||||||||
![]() #10:ピロティがゲートとして機能する |
広島市はこの建物について、可能な限り延命して使い続ける方針を決めている。高度成長期の公共建築に多いこの種のモダニズム建築が十分にメンテナンスを受けないうちに老朽化し、軒並み建て替えられていく中にあって、それらの先駆けであるこの建物は今なお役割を果たし続けている。 さて、ピースセンターの真価を知るには、やはり8.6を直接見るのが一番だ。テレビの全国中継は朝の数分しかないが、この日、公園内外には様々な政治団体やら宗教団体やら外国人やらアーティストやらが押し寄せてきて、一種独特な雰囲気に包まれる。インターナショナリズムを体感できるだろう。 現状についてもう一つ。「平和の門」でも書いたように、当事者である被爆者の高齢化はいよいよ進んできている。慰霊と平和という二つのコンセプトのうち、慰霊の色が薄れていく(直接知っていた人を弔うことがなくなる)のは確実で、丹下が本来狙っていた「平和を創り出す工場」としての機能を強化する必要がある。具体的には、平和公園という公共空間を使って世界的なイベントやアート展、インスタレーション等を展開しメッセージ発信能力を高める(ニュースが世界配信されるくらいのレベルまで)ことが考えられる。こういった試みは公共空間活用という時流もあり既に試行が始まっている。(*4) |
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![]() #13:恒例の灯籠流しも目的が慰霊からメッセージ発信に変化している。 |
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| [補注] (*1) 建物疎開によって生じた空地を元に建設された幅員100mの道路。復興都市計画のシンボル的存在。arch-hiroshima 広幅員街路の景 (*2) 資料館内にある模型を撮影したもの。 (*3) 同上 (*4) 例えば2005年12月現在だと、石井竜也プロデュースのライトアートイベントが平和資料館前で開かれている。 [参考文献・サイト] 1) 丹下健三+淺田孝+大谷幸夫(1954)「廣島計画」 新建築 1954年1月号 2) 宮本和義+建築知識編集部 2002 「中国・四国を歩こう!建築グルメマップ2」 エクスナレッジ pp9 3) 日本建築学会(1998)「総覧 日本の建築 第8巻」新建築社 pp176 4) 吉田研介ら(1995)「建築設計競技選集1」メイセイ出版 5) 丹下健三+藤森照信(2002)「丹下健三」 新建築社 pp130-169 6) 丹下健三(1949)「広島市平和記念都市に関連して」 新建築 1949年10月号 7) 鈴木博之(1999)「日本の<地霊>」 講談社 pp28-48 [行き方ガイド]
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