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| 地図から消された島。忘れられた島。そこにたたずむモダニズム建築。 |
日清・日露戦争の際、広島・呉という二大軍事都市の防衛のため、瀬戸内海の島々には砲台が設置された。大久野島は周囲4kmの何の変哲もない小島であったが、1902年、芸予要塞と称して北部・中部・南部の三カ所に砲台が建設され、合計16門が設置された。結局この砲台は使用されることなく廃止され、入れ替わる形で1929年に毒ガス工場「陸軍造兵廠火工廠忠海製造所」が建設され1945年の敗戦まで生産を続けた。日本軍が実戦に使用した毒ガスは全て大久野島で生産されたもので(1)、主に中国大陸で使用されたとされるが、国際法に違反する非人道兵器ということで詳細は不明(2)。秘密のため地図からこの島が消されていたというエピソードは有名だ。戦後、米軍などの手で施設はことごとく破壊されたが、まだ一部が残っている。
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| 大久野島の旧軍施設 Okunojima |
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![]() #1:発電所跡の内部。写真では伝えにくいが息を呑むほどの広がりがある。 |
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![]() #2:発電所跡の外観 |
(1) 発電所跡 (写真#1-#10) 巨大な廃墟。内部には8基の発電機が設置されていたが足りず、不足分は本土から海底ケーブルで送電されていた。周囲には目隠しのためにわざわざ盛土までされている(写真#3)。残留化学物質の懸念がゼロではないので、壁などに触れるのは避けた方がよい。立入禁止と書いてあるが、中に入ることは可能だ([注意!]を参照のこと)。 内部は思ったより明るく、広い。床にはガラス片が散乱し、ところどころに落書きがある。ほぼ当時のまま放置されているようだ。鉄骨が建物を支えているが、壁が薄く開口部が多いため、崩れてくるのではないかと不安になる。 この建物を、その目的云々ではなく一つのデザイン物として見ると、「モダニズム建築を作ろうという意図を持って作られた建物」であると感じる。外部はツタに覆われ、内部は大スパンの無柱空間。モダニズム建築というものは自然の中に埋もれている姿が最も美しいのではないかと感じた。 現在の管轄は環境省だが、保存のための改修工事等は行わないという。つまり、朽ち果てるに任せるということらしい。このような状態での一般公開は難しいであろう。しかし個人的な見解として、この建物は、歴史の生き証人としてまた建築として保存するべきではないかと思う。 |
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(2) 中部砲台跡 (写真#11-#14) 煉瓦とセメントで構築された砲台。結局砲台として使用されることはなく、大砲撤去後は毒ガスの原料置き場として使用された。 保存状態は良好で、全国的に見ても貴重な遺構となっている。 |
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(3) 長浦貯蔵庫跡 (写真#15-#17) 島内最大の貯蔵庫。山に埋もれる形で建設されている。コンクリート造の貯蔵庫内にタンクが据えられていた。壁が黒いのは、米軍が火炎放射器を使用して毒素を燃やしたためである。破壊から既に50年が経過しているが、ここも残留化学物質の懸念が捨てきれないので、触れない方が無難である。 |
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その他の遺構 島内ではその他にも多くの遺構を見ることができる。 |
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| [補注] (1) 毒ガスは、陸軍の大久野島の他、海軍の相模海軍工廠でも生産されていたが、実戦に使ったのは陸軍のみである。 (2) 大久野島で生産した6616tの半分が実戦に使用されたとされる。 [参考文献・サイト] 1) ブルーガイド編集部(2001)「てくてく歩き18 倉敷・広島・西瀬戸内海」実業之日本社 pp122-123 2) 環境省報道発表資料(平成9年12月20日)大久野島土壌等汚染処理対策(中間報告)について 3) 2004年8月12日付「中国新聞」記事 大久野島の毒ガス関連遺跡 発電場跡を一般公開へ [行き方ガイド] JR「忠海(ただのうみ)」駅から徒歩10分で忠海港(mapion地図)。そこから高速艇で15分ほどで大久野島に着く。三原港からも連絡船があるが、忠海からの方が便数が多い。「瀬戸内一日建築ツアー(arch-hiroshima)」 |
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