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| 恒久平和の象徴…、それ以前にこれはれっきとした建築だ。 |
設計はチェコ人建築家のヤン・レツル(1880-1925)。レツルはプラハでアールヌーヴォーの建築家として活動していた(写真#11)。当時アールヌーヴォーに傾倒していた多くの芸術家と同様、彼もまた日本を目指したのであろう。当初はデ・ラランデ事務所のスタッフとして来日し、やがて自分の設計事務所を銀座に構えるに至った。日本では「松島パークホテル」「宮島ホテル」のような和洋折衷の作品が目立つが、ほとんどが失われ、国内に現存する作品は少ない。 話を原爆ドームに戻そう。広島県物産陳列館は日清戦争を契機に発達した県内製品の販路を開拓する拠点として計画された。建設主体は広島県であり、レツルにこのプロジェクトを持ちかけたのは県知事寺田祐之とされる。 (参照:arch-hiroshima軍都としての景)
その後、1921年に「広島県商品陳列所」、1933年に「広島県産業奨励館」と改称され、 広島県内の物産の展示即売のほか、広島県美術展覧会、博覧会、共進会などの文化的催しに利用された。戦時下の1944(昭和19)年3月には産業奨励館としての業務が廃止され、統制会社の事務所として使用された。(*3) さて、私がこの建築の最も優れた点を挙げるとするならば、それはファサード(正面)を川に向け開放的な川辺の景観デザインを成立させているという点だ。敷地の条件から結果的に川を向いたとか、プラハにそっくりな建物があるとか陰口をたたかれるが、建築家は荷揚げ場所としての相生橋橋詰というコンテクストを読んでデザインしたのだと思う(*4)。広島は今も昔も川の都市だが、どの建物も川ではなく道路のある方向に顔を向けていることは悲しむべき事実である。河岸の風景づくりを見直す意味でも、この建築に学ぶ点は多い。
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| 原爆ドーム / 旧広島県物産陳列館・産業奨励館 Atomic Bomb Dome / Old Prefectural Industrial Exhibition Hall |
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| 世界遺産にも登録(*1)され、広島最大の観光名所として君臨している原爆ドームだが、被爆前にあっても楕円形ドームを備えるこのセセッション建築は観光名所であった。 ただし建物の構造、特に耐震性には大きな欠陥を抱えており、このことは被爆時に全壊したという事実にも現れている(*2)。しかしながら、壊れたからこそモニュメントとしての意味を持ち続けているというのもまた事実である。戦後はたびたび取り壊しの危機に瀕しつつも生き延びた。鉄骨により支えられ、樹脂を注入されることで辛うじて崩壊を免れているが、地震等によりいつ倒壊してもおかしくない状況は変わっていない。 |
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![]() #1:北西側は往事の壁面を比較的良く残している。 |
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[行き方ガイド]
[補注] (*1) 1996年12月7日、アメリカと中国を除く国々の支持を得てユネスコの世界遺産に登録された。参考サイト 1) に詳しい。 (*2) 例えばレストハウスや日銀旧広島支店は、いずれも爆心地近くに立地しているにも関わらず倒壊を免れている。両者と原爆ドームでは確かに条件が違うが、ドームの脆弱性を示す論拠としてよいと考える。ちなみにレツルが同時期に設計した「上智大学校舎」は関東大震災(1923)によって完全に倒壊している。 (*3) 参考サイト 2) などを参考にした。 (*4) 裏付ける資料は手元に無い。私の推測である。 [参考文献・サイト] 1) ユネスコ世界遺産活動 http://www.unesco.jp/contents/isan/ 2) 広島平和記念資料館ウェブサイト http://www.pcf.city.hiroshima.jp/index2.html 3) 日本建築学会中国支部・中国地方まち並み研究会(1999)「中国地方のまち並み」中国新聞社 pp198 4) 日本建築学会(1998)「総覧 日本の建築 第8巻」新建築社 pp175 5) 広島市+被爆建造物調査研究会(1996)「ヒロシマの被爆建造物は語る」広島平和記念資料館 pp26 |
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